経歴
| 1971年3月 | 板橋区立板橋第四小学校 卒業 |
|---|---|
| 1974年3月 | 板橋区立加賀中学校 卒業 |
| 1977年3月 | 国立東京工業大学附属工業高校(建築科)卒業 |
| 1979年4月 | 東洋大学社会学部 入学 |
| 1983年3月 | 東洋大学社会学部 卒業 |
| 1983年4月 | 公明新聞 入社 |
| 1995年10月 | 公明新聞政治部副部長 |
| 2003年10月 | 公明新聞 退職 |
| 2003年7月 | 党北関東方面政策局長 就任 |
| 2003年11月 | 衆議院議員・初当選(比例北関東ブロック) |
| 2003年11月 | 党埼玉県本部副代表 就任 |
| 2003年12月 | 党選挙対策委員会副委員長 就任 |
| 2004年10月 | 党国会対策委員会副委員長 |
| 2004年10月 | 党選挙対策委員会事務局長 |
| 2004年11月 | 党総合企画室次長 |
| 2004年11月 | 党埼玉県本部幹事長 |
| 2005年9月 | 衆院選で惜敗 |
| 2006年11月 | 党埼玉県本部副代表 |
| 2009年8月 | 衆議院議員選挙で惜敗(比例北関東ブロック) |
| 2010年2月 | 党政務調査会副会長、党市民活動局次長 |
| 2010年3月 | 党長野県本部顧問 党新潟県本部顧問 |
| 2010年7月 | 参議院選挙で当選(比例区) 参議院党国会対策副委員長 参議院国土交通委員会理事 参議院予算委員会委員 参議院政治倫理の確立及び選挙制度に関する特別委員会委員 |
| 2010年9月 | 党千葉県本部顧問 党埼玉県本部顧問 |
| 2010年10月 | 党関東方面副議長 党栃木県本部顧問 党国土交通部会長 党観光立国推進委員会委員長 |
| 2011年3月 | 党東日本大震災対策本部副本部長 |
| 2011年6月 | 参議院東日本大震災復興特別委員会理事 |
| 2011年9月 | 参議院党国会対策筆頭副委員長 参議院議院運営委員会理事 参議院国土交通委員会委員 参議院政治倫理の確立及び選挙制度に関する特別委員会委員(再) |
| 生年月日 | 1958年8月19日 |
|---|---|
| 血液型 | A型 |
| 家族構成 | 妻・子供3人 |
| 趣味 | スポーツ観戦(野球・相撲・他)・ 読書 |
| 感動した本 | 竜馬がゆく |
| 座右の銘 | 知恵は現場にあり |
長さんものがたり
働く母の背中を見て育った“少年時代” 働きながら学んだ“青春時代”
私が5歳の時に父が他界。家には、母と4人の男の子が残されました。
貧乏の中、母は、女手一つで4人の子どもを、必死になって育ててくれました。
女性が働きながら子どもを育てるのは、今以上に難しい時代でした。
たくさんの苦労があったと思います。
販売員の仕事や、内職の仕事――夜遅くまで働く母の背中を見ながら、私は育ちました。
少しでも家計を助けようと、小学校から帰ると家の内職を手伝いました。
生活は苦しかったんですが、母はいつも笑顔で私に接してくれました。
ある日、“ナイフとフォークの使い方ぐらい知らないと恥をかくから”と、母が、近くの洋食屋に連れて行ってくれました。私と弟はハンバーグを食べて、母は水だけを飲んでいました。
明日の生活費もないような状態です。
なけなしのお金をはたいて食べさせてくれたと思います。
「おいしい」と聞く、その時の母の優しい眼差しは、今も自分の目に焼き付いて離れません。
“大きくなったら、うんと母に親孝行をしたい”“困っている人、苦しんでいる人の側に立ちたい”それが小さい頃からの私の決意でした。
工業高校時代も、車の洗車のアルバイト。学生時代には、建築現場の作業員として働きながら、ジャーナリストを目指して勉強しました。
泥まみれになって仕事をする中で、働く大変さ、そして大切さ、そのことを体験として学ばせて頂いた。それが今の自分にとっては宝物の経験となっています。
執念の取材で、国が動いた。「廃棄物処理法」が改正
東洋大学を卒業後、公明新聞に就職。新聞記者として20年間働きました。 後半の8年間は政治部副部長として国会を走り回り、さまざまな与野党の攻防戦、政治の世界の裏側をつぶさに見て参りました。
記者として常に心がけてきたことは“現場を徹底して歩くこと”でした。
1988年の夏のある日ことです。一つの新聞記事に目がとまりました。
それは、清掃作業員の方が、使用済みの注射針で怪我をする事故が相次いでいるという記事でした。エイズや肝炎など、さまざまな血液を介する感染性の病気に注目が集まっていた時です。大変に危険だと思いました。
いくつもの病院を取材しました。医療廃棄物がどう扱われていくのかを、実際に、この目で確かめようと、病院から出るゴミ収集車のあとを追いかけ、東京湾の埋立地にまで足を踏み込みました。
埋め立て地まで、ゴミを追いかけるというのは、若いというか青い発想だったかも知れませんが、まずこの目で見ないことには納得できませんでした。
埋立地には、背よりもはるかに高いゴミの山が畝のように何百メートルもずっと続いていました。すごい臭いとともに、数え切れないほどの鳥が空に飛んでいました。
ゴミ山の中で医療廃棄物を発見。そこには、血がついたままの注射器や点滴のチューブが、そのまま投げ捨てられ、散乱していました。私は、この実態を取材し、公明新聞やグラフ誌に現場の写真とともに記事を掲載しました。すぐにでも、何らかの対策を講じなければ、大変なことになると感じたからです。
この記事が広く話題を呼び、注射器などの医療廃棄物による2次感染の恐れが、社会問題として大きく扱われるようになりました。
公明党の地方議員、国会議員もこれに素早く反応してくださいました。
各地で調査活動が活発化。国も動かざるをえなくなりました。
翌年には、厚生省が初の処理ガイドラインを発表。ついには、1991年10月、国会で廃棄物処理法が改正され、医療廃棄物の適正な処理の義務付けが実現したのです。
私は、一介の記者にすぎませんでしたが、物事をきちんと調べ、現場の声を届ければ、国や地方を動かすことができる。そのことを確信した出来事でありました。
現場からの発想が本当に大事だということを学ばせていただきました。
「政治とカネ」の問題に切り込み、「政治資金規正法」の改正を実現!
2003年には、公明党の比例北関東ブロックの候補者として、衆議院選挙に初出馬し、初当選をさせていただきました。そして、国会議員として働く中、2004年7月に自民党旧橋本派をめぐる日本歯科医師連盟の1億円ヤミ献金事件が発覚しました。
当時、政治団体間の献金には上限がなく、銀行振り込みの義務づけもありませんでした。ゆえに献金の額は無制限で、その証拠も残らない。これが不正献金の温床となっていました。
公明党は、政治団体間の献金に年間5000万円の上限を設けること、そして献金は銀行振り込みに限ること、この2点を、政治資金規正法の中に盛り込むことを主張しました。
私は一年生議員ながら、国会対策副委員長に抜てきされていましたので、自民党と公明党の国対間の協議をバックアップしました。上限を設けたくない、億単位の上限にしたい、との自民党からの意見も強くありました。
しかし、国民の皆さんは、政治に対する信頼を失っている。ゆえにお金の問題には妥協できない。
私はこう強く思い、最後まで自身の主張を貫くことができたと思っています。
そして2004年11月、自民党に私たちの主張を受け入れて頂き、政治資金規正法の改正案をまとめあげることができました。
この法案は成立しましたが、いまなお、庶民感覚とかけ離れた「政治とカネ」の問題は続いています。政治家だけが甘い汁を吸っているのではないかと、国民の多くの方が感じていると思います。
“政治”不信は“政治家”不信です。今こそ、「政治家改革」が最も必要な時です。これからも、清潔な政治の実現のために全力で頑張っていく決意です。
「困っている人のために」これが政治の原点
私は、弁護士でもなければ、医者でもありません。外交官でもなければ、高級官僚でもない。
お金持ちの御曹司でも、政治家の二世でもありません。人に誇れるような肩書きはないかもしれません。しかし、それが私の誇りでもあります。
エリートや二世、三世議員ばかりに政治を任せていたら、庶民の感覚から遠く離れた次元に政治は漂流してしまう。私はそう思います。
悩んでいる人、苦しんでいる人、その思いをもっている方々と一緒に悩んだり、泣いたり、そして一緒に喜べる政治――これが私の夢です。目標です。
そういう政治をする一人になりたい。こう決意しております。
現実に困っている人、苦しんでいる人のために、自分にいま何ができるのか――これを常に自身に問い続けながら、今日も全力で、地域を、現場を、走り回ってまいります。









長沢ひろあき(広明)
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